氷上の軌跡 -#18徳光陸-

チームブログをご覧の皆様こんにちは。
中央大学スケート部前主将の徳光陸です。
12/10から始まった氷上の軌跡もいよいよ今日で最後になってしまいました。
チームの一員としての活動がいよいよ終わってしまうという寂しさにかられながら最後のブログを書きました。

12/6の最終戦を終えて引退を迎えましたが、あれから2週間以上経った今日でもまだ実感が湧いていません。
ですが、毎日他の同期のブログを読んだり、自身がブログを書く際に役職名に「前」を付けたりといった日々の少しの変化から徐々に「引退」の2文字が頭の中で色濃く存在感を発揮してくるようになりました。

例年、この時期はインカレ前だったこともあり、3年間先輩たちの氷上の軌跡を読んで自身の気持ちを奮い立たせて試合に臨んでいたことを今でも鮮明に覚えています。
4年生になったら自分達もそんな中でブログを書くのだろうとごく自然な流れで考えていました。当たり前ですが、このような世の中になることを当時は想像もしていませんでした。
ただ、シーズンが早く終わったことで今年は引退後のブログになりましたので、何も気にせずに書きたいことをとにかく書いていきます。

では本題に移ります。
今回は氷上の軌跡と名がつくブログですので、私のこれまでのアイスホッケー人生を振り返っていきたいと思います。と言っても年長さんの5歳から正式なアイスホッケー人生がスタートしましたので、ほとんど私の人生ブログになってしまいますが、お許しください。

5つ上の兄がアイスホッケーをしていた影響で、私は記憶がないほど小さい時から親に連れられてリンクに行っていたそうです。その頃はベビーカーに乗り、鼻と口以外は毛布に覆われていたみたいなので、リンクには呼吸をしに行っていたという表現の方が正しいかもしれませんね。なので、今も毛布が大好きですし、リンクでおにぎりとリンゴジュースを飲み食べしながら大きくなりました。

そして5歳でアイスホッケーを始めましたが、小学校2年生の時に大きな転機が訪れます。引越しの関係で、小学校を転校することになったのです。元の小学校のチームに残るのか、新しい小学校のチームに移籍するのか選択を迫られた私は新しいチームに移る決断をしました。そこで出会ったのが大学まで同じチームでプレーすることになった明朗でした。そこから15年間も一緒にプレーしていれば、さすがに見なくてもどこにいるか自然と分かってきてしまいます。笑

この頃から徳光家は、全てがアイスホッケー中心の生活になっていきました。
誕生日を遠征先で迎えるのは当たり前でしたし、クリスマスは合宿や朝練があったため4時半にプレゼントを開封したこともありました。もちろん、家族4人でどこかに旅行に行った記憶もありません。
それだけ私も兄も、父も母も全てのことを犠牲にしてアイスホッケーに捧げてきました。
私と兄よりも、両親の方が犠牲にした時間や中身は大きかったと思います。

中学、高校は日本一を目指して地元の学校に進学しましたが、その目標は叶いませんでした。そして大学選択の時期になり、私は当初中央大学とは違う大学進学を目指しました。しかしその受験に失敗し、その次の大学受験にも失敗、当時は心身ともにボロボロになってしまい、3ヶ月で10キロ近く体重が減ってしまいました。
受験を応援してくれていた方や学校の先生、チームメイト、そして何よりも家族に申し訳なくて生きた心地がしなかったあの期間は4年経った今でも毎日のように思い出してしまいます。

あの期間を乗り越えたことだけは、人生で唯一自分自身を褒めることができます。それだけ二度と経験したくない時間でした。
そして、最後の最後でまさかの中央大学に拾っていただきました。この頃にはもうホッケーの道を離れてもいいんじゃないかと考え始めていましたが、このタイミングで日本一のチームに入れる機会が来るなんて、まだホッケーを続けろと神様が言っているとしか考えられませんでした。

そんな経緯もあり、4年間で中央大学に恩返しをすること、せっかく大学生になれたのだから後悔なく好きなことをやる、この2つを決意して入学しました。
入学してからは自分のやりたいことには全部取り組みました。カナダへの語学留学だったり、教職を取ったり、資格を取ったり、インターンシップに行きまくったり、海外を旅行したり、ゴルフ漬けの生活をしたりと本当に有言実行してしまいました。
その関係でチームに迷惑をかけてしまうことも多々ありましたが、そんな自分に対しても温かい目で見守ってくれたスタッフや、何でも肯定してくれた先輩、同期、後輩の存在が心の支えとなって後悔のない日々を過ごすことができました。
大学受験の経験があったからこそ、大学生活では個人的には一切苦労したと感じることはありませんでした。どんな困難もあの時より全然余裕じゃないか、と。

ただ、中央大学への恩返しをすることができずにあっという間に時が過ぎてしまっていました。3年目の釧路インカレ準決勝で負けた後、ホテルまで防具運搬用のトラックで翼さんと2人で号泣しながら帰ったあの帰り道は、思い出すと今でもまた泣いてしまいそうです。
直接言うと調子に乗るのでここでしか言いませんが、阿部キャプテンのことを間近で見ながら過ごせた大学3年目は、言葉では言い表せないくらい多くのことを学び、かなり成長できた時間でした。それが今年の優勝に繋がったことは言うまでもありません。だからこそ勝たせてあげたかったのですが、現実は思い通りにはならず、必ず来年リベンジすると誓って4年目を迎えました。

しかし新チームが始動してすぐに解散となってしまい、氷上で喜ぶことも悲しむことも、笑い合うことも悔しがることもできない日々が続きました。途中からはもうこのまま一年終わってしまうだろうと半ば諦めの気持ちになってしまっていました。
そんな中で、何とかリーグ戦を開催できる運びになった時は今までにないような感情が湧きました。家族にユニフォーム姿を見せられること、もうそれだけでも十分なんじゃないかと感じることもありました。

リーグ初戦で怪我をしてしまい、最後の試合まで自分の納得のいくプレーができたかと言われれば決してそうではなく、キャプテンとして貢献できたことはほんのわずかだったかもしれませんが、チームメイトと共にチームが1つとなって戦うことができたと感じられたあの試合はホッケー人生の最高の瞬間でした。そして優勝してリンクの真ん中でみんなで歌った校歌や、人生はじめての嬉し涙を流せたことは夢のような時間でした。

間違いなく一生の宝物です。

先程の中央大学への恩返しという意味では、どこまでそれが達成できたのかは分かりませんが、優勝に微力ながら貢献できたのではないかと思っていますし、ホッケー以外の面でも特に後輩たちが新しい道を開いてくれたと言ってくれることもあるので、私が生み出せる価値はおおよそ出し切れたと実感しています。

兄がホッケーを始めていなかったら、小学生の時にチームを移籍していなかったら、明朗に出会ってパスホッケーを確立していなかったら、大学受験に失敗していなかったら、中央大学に拾ってもらえなかったら、肯定してくれる先輩や同期、後輩に出会っていなかったら、あと100回人生があってもこんなに充実した大学生活を送ることはできなかったと思います。
そんなあらゆる奇跡が集まって、私の氷上の軌跡を作り上げてくれました。

そして、これまでのホッケー人生の中で、お世話になった方々の1人1人の名前を出していったらキリがないくらい多くの方々に支えられて無事に引退を迎えることができました。
特に家族の存在があってこその今の私だとつくづく感じています。

両親は私がやりたいことには何1つ文句を言わずにお金を出してくれて、時間をかけてくれて、どんな場所の試合でも毎試合見に来てくれて本当に感謝しています。いつも遠征先で怪我や体調不良で病院に行くことになってしまい、各地の病院の診察カードが貯まりまくってしまったことも今では懐かしい思い出です。

兄には、いつも両親が自分ばかりに手をかけていることで嫌な思いもたくさんさせたと思いますが、そんなことは一切口に出さず、12/6の最終戦前にくれた手紙では、「俺がホッケー中心の生活にしてしまったせいで、たくさん我慢させてごめんね」とまで言ってくれましたが、兄がホッケーを始めてくれていなかったらこんな最高な学生生活を送ることは絶対にできませんでした。兄が私にとっての進むべき道を全て切り開いてくれました。

就職で地元に戻るわけでもないので、家族に対しての恩返しができるか分かりませんし、人生であと何回会うことができるかも分かりませんが、今までの分も家族に好きなことをさせてあげられるようにしっかりお金を稼いでこれからは貢いであげることが目標です。そして行けていなかった家族旅行にも連れて行ってあげられればと思っています。
最後に、

中央大学に入学して本当に良かったです。
幸せなホッケー人生でした。
お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。

非常に長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。
そして引き続き中央大学スケート部の後輩たちへの応援をよろしくお願いいたします。

#18 徳光陸

中央大学スケート部アイスホッケー部門

中央大学スケート部 アイスホッケー部門