氷上の軌跡 -#31館田卓-

僕のブログを見に来てくれた皆さんこんにちは!
背番号31番の館田卓です。

みんなとても感動するような文章書く中、僕はこういうものが正直苦手です。
ですが、最後のブログなので自分が思うこと正直に書いてみます。つまんないと思うかもしれませんが是非読んでください。
 
さてさて、いざ氷上の奇跡を書こうとしたのですが、いろいろなことが思い出してきてちょっと泣きそうになりました。
僕はあまり泣かないタイプですが、最後に泣いたのは足の小指とiPhoneの画面を同時に複雑骨折したときです。あれは身も心も痛かったっす。笑
ここからはまじめに、、、。
 
私がアイスホッケーと出会ったのは、3歳の時です。冬になるとアイスホッケーをやる幼稚園だったので、小学生に上がる頃にはすでにスケートリンクを華麗に滑っていました。
(スケートの授業となるとモテモテでこの頃が館田の全盛期でしたね。笑)
5歳上の兄がすでにアイスホッケー部に入っており、その影響で自分も入部しました。
正直、何でアイスホッケー始めたの?って聞かれても何も答えられません。笑
物心ついたころには、もうホッケーは生活の一部となっていました。
 
小学4年生の頃、所属していたクラブチームのコーチから「キーパーやってみない?」と声をかけられ、ゴールキーパー館田が誕生しました。今思えば、僕にFWやDFの才能がないことを考えて誘ったのかもしれません。笑

中学のころは、釧路西部という4校の合同チームに所属していました。齊藤大知さんだったり、阿部翼さんにはここで出会いました。1年の頃から可愛がってもらって、よく遊びにも誘ってもらいました。
チームも強く、1年生の時には全国準優勝、3年生の時には、ガクトのブログでもありましたが、鳥取中に勝ち全国優勝ととてもいい経験が出来ました。
 
高校は兄も通っていた、釧路工業高校に入学しました。
というのも、坊主はいやだな~と思っていたのでしなくていい所にしたんですが、ところがどっこい。1年の夏のミーティングでみんな坊主にしましょうということで、ここから3年間の坊主生活が始まりました。今はどーなったかわかりませんが。笑
試合では勝てないことも多く、なかなか結果を出すことが出来ませんでした。
この頃、関西大学にいた兄は、ユニバーシアードのメンバーに選ばれたり、インカレなどで活躍していて、その姿を見ていいなぁ、自分ももっと上を目指そうと思える存在でした。(絶対直接では言いません。笑)
ただ、がむしゃらにホッケーをやっていた気がします。
 
大学は兄と同じ関西大学を考えたのですが、ここまで兄と同じ道を歩んで来たので、なんとなく違う所に行きたいと思うようになりました。
そこで、中央大学の江守さんから声をかけていただき自分は東京に行くことにしました。
最初から通用するとは思っていませんでしたが、その3倍くらい絶望でした。
しょーさんがうますぎでした。2年の時には、僕がちょっと腐ってしまうこともあってそれから険悪になってしまいました。(これ言っても大丈夫かな?笑)
ほんとすいませんでした、、、。
 
気づけば自分も4年生になり、もう大学でホッケーをするのもないのかと思うとなんだか寂しい気持ちです。もう4:45に起きなくていいのか、、、。
今年はなかなか大変な年だったし、自分自身もいろいろあった1年でした。
しかし、大学最後の年に「優勝」という形で終われたというのはとてもうれしいし、後輩、マネージャー、スタッフ全員の力で出来たと思うのでみんなに感謝です。ありがとうございます。

最後にですが、22年間お世話になった親への感謝を述べて終わりたいと思います。
仕事で疲れてる中、合間をぬって送り迎えしてくれてるのに、ホッケーで結果が出ず反抗的な態度をとったこともあったけど、それでも自分のやりたいホッケーをやらせてくれてほんとありがとう。今となってはほんと申し訳ないと思ってます。
また、じーちゃんには防具を買ってもらったりしてほんとお世話になりました。
高いのに、、、。嫌な顔せずに「がんばれよ」と一言。泣ける。
ホッケーで恩返し出来たかわかりませんが、来年からは立派な社会人として、また、今後も体はもちろんですけど、入れられて悔しいと思わなくなるまではホッケーを続けるつもりなので、何らかの形で恩返しはしたいと思ってます。
生意気な三男坊だったけどほんとありがとう。卒論頑張ります。笑 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これからも中央大学スケート部の応援をよろしくお願いします。

#31 館田卓

中央大学スケート部アイスホッケー部門

中央大学スケート部 アイスホッケー部門