氷上の軌跡 -#71鶴谷佳樹-

自分のことを知っている方も知らない方も、わざわざ見に来ていただきありがとうございます!

休日の平均睡眠時間は12時間、背番号71 番鶴谷佳樹です。
高校の時に毎日6時間睡眠で眠気と戦う日々を過ごした反動で、大学では寝すぎました。
そんな私の影響か、部屋っ子の1年生#29柴田響もよく寝る子に育ち、今年は起きている響よりも寝顔を見る時間の方が多くなってしまいました。もっと他の所を見習って欲しかったです。
左から#71 鶴谷佳樹、#91 嶋貫一真、#29 柴田響

冗談はさておき、これまで本当にたくさんの人に支えられ、最後までギリギリ辞めずにホッケーを続けることができました。本音を話そうとするとなぜか涙が出そうになるというよくわからない悪い癖のせいでこれまで素直に感情を伝えることがうまくできなかったことも多々あったため、今回はこれまでのホッケー人生を振り返りながらその当時思っていたことを書いていく回にしようと思います。
今まで私と関わっていただいた方はこれを見ながら「こんなこと考えていたんだ」と思いながら、私を知らない方は「中央にこんな人いたんだ」と思いながら読み進めていただけると幸いです。

私のアイスホッケー人生は3歳から始まりました。きっかけはわかりません。気づいたらホッケーをしていました。幼稚園の頃は全体の練習に参加せず、ただ黙々とリンクをぐるぐる走り続けていたみたいです、パックも触らずに。スピードスケートの方が向いていたのかもしれません。

小1から小3までは苫小牧ジェッツというクラブチームに入りました。成田啓祐さんと同じチームでした。

小4からは小学校のチームに入りました。#23塚原宏太ともここで出会いました。当時あまり強いチームではなく10点差以上で負ける試合も多くあり、よく泣いていました。ある試合でいつものように泣いていた時、ベンチにいた父親に投げ飛ばされ「泣くくらいなら自分でどうにかしろ!」と怒られました。怖すぎます。この頃からホッケーを少しずつ嫌いになっていました。
小6の時もいつものように怒られていた時、「この先本気でホッケーを続けるか辞めるか選べ」と言われました。めちゃくちゃ辞めたかったですが、怒った父親にまた会いに行くのが怖く、A4の紙に「やめます」と書いて裏返しで廊下に置いたのですが、おそらく読まれなかったためそのままホッケーを続けることになりました。

そのまま中学の部活に入り、途中現実逃避のためにゲームや小説にはまり、3年間を終えました。
そして北海高校に進学しました。北海高校を選んだ理由は「親元を離れたかったから」です。成長のためではありません。逃げです。何回も怒っている父親も、送り迎えで不機嫌そうな母親も、全ては「ホッケーを頑張りたい」と思っている息子のために我慢してやってくれていることです。
でも私はホッケーが嫌いでいやいや続けている状態でした。妹も私がホッケーを続けているせいで我慢することも多かったと思います。
そんな家族全員誰もが幸せにならない状況を見続けながらでは心がもたないと思い、逃げるように苫小牧から札幌に行きました。
それでも良い大学に進みさえすれば家族のためになると思っていました。

高1はとにかく辛かったので無心で頑張りました。
高2からは余裕も出てきて、試合にも出られるようになり、ホッケーに集中するようになりました。そして段々とホッケーを好きになりはじめました。北海高校はとてもシステムがしっかりしており、ホッケーの考え方の基礎を学ぶことができました。
現在サッカー観戦が私の趣味なのですが、サッカーはとてもチーム戦術が大事なスポーツで、そんなところに惹かれ好きになりました。その元は北海高校で学んだことが大きいです。
話を元に戻し、高2のときは試合に出ている責任感から、チームのためにと思い結構努力をしました。当時池田涼希さん(明治大OB、現:横浜GRITS)とセットを組めたことはちょっとした自慢です。
辛い練習も乗り越え、最後の大会に向け気持ちも上がっていた時、練習試合で怪我をしてしまいインターハイに出場することができませんでした。
実にあっけないものでした。気づいたら盛岡にいて、気づいたら負けていました。本当にそう感じるくらいあっという間に半月ほどが過ぎていました。

インターハイに出場することができなかったことと、私の実力不足もあり、どの大学からも推薦の話をもらうことができなかった時、江守さんに拾われる形で中央大学に指定校推薦で進学ができることになりました。

間違いなく実力と行く大学のレベルが違いすぎました。そんなことと私の冗談が通じない性格のせいもあり高3のチームメイトと距離が開いてしまいました。「お前が中央かよ」みたいな感じです。
もっと明るい性格で、誰とでも打ち明けられる性格で「いやそれな」とか「まあ実力だよね笑」みたいな軽口を叩けたら良かったのですが、当時の私は今よりも引っ込み思案で頑固だったため、むすっとした顔で無言を貫いてしまいました。そりゃ嫌われますよね。

それから「踏ん張る」に近かった「頑張る」ということができなくなってしまいました。練習はただこなし、成長しようという気概も見せることなく高校生活を終えてしまいました。大学に入ってからもこれを引っ張ることになります。

そんな感じなので、中央大学に入って最初の春合宿では「レベルの差に驚き、このままでは試合に出られないと思い努力をしました!」とはもちろんなりませんでした。
あったのは「実力差がありすぎて練習で迷惑をかけてしまうからもう少し頑張んなきゃ」くらいです。

そして合宿何日目か忘れてしまいましたが、寮に戻ってからの部屋のメンバーが決まりました。脇本直迪さん、蓑島圭悟さん、齊藤大知さんです。これを聞いたときは本当に辞めようと思いました。日本代表にも選出されているみのさん、めちゃくちゃホッケーが上手いだいちさん、ホッケーも上手いし何より顔がめちゃくちゃ怖いなおみちさん。
いや、このメンツは怖すぎる!この人たちと同じ部屋で耐えられるはずがない!辞めよう!
と思ったのですが、父親の部屋の前に紙を裏返しで置くのが精一杯の私が、辞めると決断できる勇気も行動力もあるはずがなくそのまま東京に行くことになりました。

しかし、部屋の先輩方は皆めちゃくちゃいい人たちでした。それだけではなく中央大学にいる全ての人が良い人の集まりでした。
「つるや部屋放出!」とか「寝すぎだ!寝るの禁止!」などいろいろなことを言われましたが、こんな私と絡んでくれるだけで本当にうれしかったです。
それまで冗談が通じなかった私がこんなことを言われてもへらへらしていられたのは、その言葉の裏に優しさが見えたからです。変わるきっかけをいただき感謝しています。
ただホッケーはなかなか頑張れませんでした。これまで頑張っていたのは自分が出場し、直接結果を左右する立場だったからで、先輩・同期はもちろん新入生も上手い人たちが入学してくる中央大学で1人くらい頑張んなくても大丈夫だろうと思ってしまったからです。
これまで応援し続けてくれた両親に少しでも出場している姿を見せたいと普通は思うはずなんですが。誰が見ても自分勝手な奴だと思います。

頑張ったのは大学3年の秋くらいからかと思います。チームのために自身の苦労を厭わず、全力を尽くしてくれていた阿部翼さんを始めとした周りのチームメイトをみて、少しでもチームの役に立ちたいと思い始めました。
それからちょっと頑張り、ちょっとだけホッケーも上達し、たまにベンチ入りすることもできました。

それでもその程度の軽い努力で報われるほど人生は甘くなく、たまに試合に出たなぁくらいで大学でのホッケー人生が終わりました。
「もっとやる気を持って中央に来ていたら」「父親の言葉を期待と思い頑張っていたら」なんてたらればを言えばキリがありませんが、結局は私自身の弱さのせいです。

最後には「優勝」という経験をさせてもらい、最高の形でホッケー人生を終えることができました。そのおかげで、これまでこんな中途半端な人生を送ってきたにもかかわらず「これでよかったのかもな」と思うことができています。
中央のみんな、ありがとうございます。
直接言うのは恥ずかしいのでここで言いますが今では両親にも感謝しています。両親には本当に苦労をかけました。あまり結果で恩返しすることはできなかったけど、ホッケーを続けさせてくれたおかげでいろいろな良い経験をすることができました。
これからも迷惑をかけると思うけどこれまでの経験をもとに頑張ります。

こんな感じです。長くなりすぎたのでこれで終わろうと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。

これからも中央大学スケート部の応援をよろしくお願いいたします。
#71 鶴谷佳樹

左から齊藤大知さん、中央上 蓑島圭悟さん、中央下 #71鶴谷佳樹、右 脇本直迪さん

中央大学スケート部アイスホッケー部門

中央大学スケート部 アイスホッケー部門